普済寺~立川市の歴史と深く関りを持つお寺~

普済寺(ふさいじ)は立川の歴史に深いかかわりを持つお寺です。大変格式が高く、国宝「六面石幢(ろくめんせきとう)」を始めとしたたくさんの文化財を保存しています。立川崖線の崖上に位置し、柴崎村から続く立川市の中心地として地域の発展と共に歴史を刻んできました。

玄武山普済寺入り口

玄武山普済寺の入り口。大きな石灯籠が印象的です。

概要

臨済宗建長寺派に属し、多摩一円になんと18もの末寺を持つ大変格式の高いお寺です。。正式には「玄武山普済寺」、開創は南北朝時代の文和2(1353)年にまでさかのぼります。当時一帯を支配した「立川氏」の菩提寺として立川宮内少輔宗恒(たちかわくないしょうゆうむねつね)によって建てられました。以来、立川氏の庇護のもとに、多数の僧侶が修行に励む荘厳な道場として隆盛を極めましたが、戦乱の中で立川氏が没落すると普濟寺も衰退してしまいます。

その後、立川一帯を治める事になった高幡城主平重能によって寺域が拡張され、そして後北条氏の幕下となり勢力を盛り返した立川氏が再び大檀那になるも、すぐに豊臣軍の攻撃を受け大半の堂宇・寺宝を焼失してしまったりと、様々な変遷を経て今に至ります。

立川氏とその館跡

立川を治めていた立川氏の館がこの普済寺のある場所にあったと伝えられています。立川氏は武蔵七党系図によると、西党に属し、鎌倉時代には幕府に仕え、戦国時代には関東を制した後北条氏に仕えました。その後天正18(1590)年北条氏照の居城である八王子城落城によって立川氏は浪人となり、その後水戸藩士として水戸に移住しました。現在でも本堂前と西側墓地にそれぞれ40mほどの土塁が残されています。

土塁の写真

立川氏の館跡があった事を物語る土塁。鎌倉時代に造られたものとされます。

普済寺のある場所は立川崖線の崖上にあたります。すぐ下を残堀川が流れ、南側は崖という城や砦を作るにはうってつけの立地です。あとは崖に向かって垂直方向に土塁を築けば、北に向かって多くの防御力を割くことで守りを固める事ができたのでしょう。今はその土塁の上に大きなイチョウが植えられていて、秋には見事な紅葉を楽しむことができます。

立川氏と立川市

立川市の名称の由来については諸説あります。以下に挙げますが、うち二つが立川氏に関わるものです。

  • 国府(当時武蔵野国府は府中にあった)の前を東西方向に流れる多摩川を日の経(たて)の川と呼んだとすることに由来する、たてかわ説。これは府中から見て東西に連なる「多摩の横山」と呼ばれていた現在でいうところの多摩丘陵に対して多摩川が縦(南北)に流れている立川付近を「立の河」と呼んでいたものが「立河」→立川となったとするものです。
  • 立川氏が居住していたことに由来する立川氏説。立川氏は武蔵七党のひとつとされる西党に属した地方豪族の事で次の「館川説」の根拠となった普済寺はその居城があったとされる場所に後年建立されたものとされます。
  • 普済寺に館(たち)があったことに由来する、館(たち)川説
  • 多摩川の早い瀬に由来する湍川(たぎちかわ)説
  • 経(たて)の川は東にある川であるとする東の川説

どの説もそれなりに説得力があるものの、正確な記録があるわけではありませんので、これと決めつける事はできません。立川氏につきましても、地名から名称をとったとも、その名称が地名になったともどちらとも考えられます。ただ、どちらにせよ、立川氏と立川市の間に深い関りがあるのだろうという事は推測されますね。立川氏は「吾妻鏡」や普済寺の寺宝「八幡神社本地仏像」などに名をとどめているのみで、詳しい事はあまりわかっていないようです。

普済寺の文化財

長い歴史を持つ普済寺には貴重な文化財が残されています。中でも「六面石幢(ろくめんせきとう)」は立川市内ただ一つの国宝となります。

六面石幢(ろくめんせきとう)

六面石幢の保存場所

本堂の南西側に小さな建物があります。すぐ前は切り立った崖で、見晴らしは最高です。この中に保存されているのが国宝六面石幢です。高さ約166cm、幅約42cm、厚さ約9cmの六枚の緑泥片岩(りょくでいへんがん・秩父青石)が、同質の土台石と笠石によって六角に組み立てられています。各面には仁王像(阿金剛・吽金剛)と四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)が浮き彫りにされています。寺と信徒の安全を願い、延文6(1361)年普済寺の開山・物外和尚の弟子である性了が建立し、動円が掘ったものです。

六面石幢は関東型(または武蔵型)六面幢と呼ばれるもので、他には埼玉県比企郡小川町大聖寺の六面幢、入間郡日高町宿谷の六面幢などがあります。

普済寺開山物外和尚座像(ふさいじかいざんもつがいおしょうざぞう)

応安3(1370)年、物外和尚の弟子性了らによって造立されたもので、高さ1mほどの漆塗りの木像です。南北朝時代につくられた全国でも数少ない木彫像として、重要文化財にしてされています。

普済寺釈迦牟尼座像(ふさいじしゃかむにざぞう)

天文8(1539)年、高幡城主平重能の施財によってつくられたもので、高さ約91cm、仏師上総法眼宗琢(かずさほうげんそうたく)による木製の座像です。明治の初めまでは総門の中にあった仏殿の本尊として祭られていました。市指定有形文化財。

板碑群

群集保存としては都下第一のもので、青石塔婆とも呼ばれ、死者の追善供養や逆修供養(ぎゃくしゅくよう)のために建てられたものです。造立年代は鎌倉時代から室町時代で、63枚が保存されています。市指定有形文化財。

首塚

普済寺首塚の写真

普済寺北西の墓地に一本大きな松が立っていて、その根元にこの首塚があります。

「武蔵名勝図絵」によれば立川宮内少輔宗恒(たちかわくないしょうゆうむねつね)の墓を後にここに移したものであるとしていますが、「江戸名所図会」では立川合戦の戦死者の首塚で宗恒の墓所は不明であるとしています。上述した板碑はこの首塚の周辺を開墾していた時に発見されたものです。

この塚の上には六つ星の紋の入った石板が立っていて、これは立川氏の墓所の石扉で、2枚あったもののうちの1枚ではないかと言われています。

首塚

松の木の根元左前にあるのが石扉とされるもの。

心源庵(しんげんあん)

普済寺の塔頭(弟子の修行道場)。室町時代から明治時代初めに至るまで、庶民の教育が行われた立川の教育発祥の地です。立川の近代教育は明治三(1870)年3月3日に郷学校として発足、この心源庵が教場となりました。その後「耦頴学者(ぐえいがくしゃ)」、「柴崎学校」と改称され、明治十一年に普済寺の東約200メートルの地(現在の柴崎児童遊園)に移転、明治十四年柴崎村が立川村と改称したのに伴い立川学校となりました。

普済寺境内

本堂

普済寺本堂桜の風景

境内の池にかかる「太鼓橋」を渡ると本堂があります。

楼門

普済寺楼門外観

太鼓橋の手前にある楼門。