立川市や町名の由来についての考察

立川市の由来は中世以降旧柴崎村の一帯が「立川郷」と呼べれていたためです。では「立川郷」はどうしてつけられたのかというと諸説あるそうです。どれもそれなりに説得力はあるものの、確かなことはわからないようです。立川市には全部で16の「町名」があり、その中には立川市の歴史と深くかかわるものもあります。今回は立川及び町名の由来について考察してみたいと思います。

立川市の名称由来

立川市の名称がどのようにしてつけられたのかは諸説あるようです。立川市のホームページでは5つの説が紹介されていますが、そのうちの3つは多摩川に関連していると説明しています。「川」のつく市ですからこれは容易に想像しうる事ですね。以下をご参照ください。

  • 国府(当時武蔵野国府は府中にあった)の前を東西方向に流れる多摩川を日の経(たて)の川と呼んだとすることに由来する、たてかわ説。これは府中から見て東西に連なる「多摩の横山」と呼ばれていた現在でいうところの多摩丘陵に対して多摩川が縦(南北)に流れている立川付近を「立の河」と呼んでいたものが「立河」→立川となったとするものです。
  • 立川氏が居住していたことに由来する立川氏説。立川氏は武蔵七党のひとつとされる西党に属した地方豪族の事で次の「館川説」の根拠となった普済寺はその居城があったとされる場所に後年建立されたものとされます。
  • 普済寺に館(たち)があったことに由来する、館(たち)川説
  • 多摩川の早い瀬に由来する湍川(たぎちかわ)説
  • 経(たて)の川は東にある川であるとする東の川説

上記5つの説のうち地方豪族であった立川氏に関連するものが二つありますが、そもそも立川氏自体が当時地名として定着しつつあった「立川」にちなんで名乗ったと考えれば、やはり多摩川との関連が一番強いように私には思えます。あくまで私見ですが。

町名の由来

立川に16ある町名のうち由来がはっきりしているものが二つあります。そもそも立川市は柴崎村砂川村の二つが一つになって出来たものです。柴崎村は現在の立川市の市域でいうと南部に位置し、砂川村は北部に位置します。極めて簡単に書くと、立川市の母体は柴崎村です。柴崎村が立川村と改称し、その後町制を施行して「立川町」、市制を施行して「立川市」となりました。一方、砂川村は砂川町となった後、立川市に合併することとなり、現在の立川市となりました。という事で、旧柴崎村の中心であった一帯が「柴崎町」、砂川村の中心部付近(砂川村の名主は砂川三番にありました)が砂川町となりました。立川市の歴史につきましては「柴崎村から続く立川の歴史」をご参照ください。

では柴崎村の由来はというと、これははっきりとした事は調べられませんでした。今後、もしわかりましたら、書き足そうと思いますが、現在のところは不明としておきます。

砂川村については残堀川との関連が言われています。瑞穂町は「狭山池」を水源とし、武蔵村山から立川市の西部を縦断する残堀川は「砂の川」と呼ばれていました。これが縮まって「砂川」という地名がつけられました。「砂の川」と呼ばれた経緯については二つの説があるようです。

「水量が少なく川底が見えることからこう呼ばれるようになった」というのが一つ、もう一つが「残堀川は昔から大雨のたびに氾濫する暴れ川で、洪水のたびに大量の土砂を流域に堆積させて人々を困らせたことから土地の人々が砂の川と呼んだ」というのがもう一つです。砂川町の周辺は砂川村の歴史を紐解いていくと、地名についてもわかってきます。上砂町は砂川町から分かれたものです。言わば砂川の分家みたいなもので、砂の付く一族とでも言えばいいのでしょうか。私が小学生の頃の事ですので昭和の終わりくらいの出来事でした。その点で言えば西砂は砂川村が形成されたやがて「西砂」と呼ばれるようになったので、同じく砂の付く一族でもかなりの古株です。そして、今の栄町の辺りは「南砂」と呼ばれるようになったそうですので、こちらも同じく古株と言えます。ちなみに、「南砂小学校」という学校名で当時の名残を今に伝えます。

では一番町はどうか。これまた砂川村との関連が色濃く残っているのだと思います。

砂川村の形成は江戸時代以降の事です。玉川上水が開削し、そこから「砂川分水」が引かれた事によって、新田開発が行われました。これが「砂川新田」と呼ばれるもので、後の砂川村を形成していきます。

砂川分水は天王橋付近から取水し五日市街道沿いを一里ほど流れたそうです。そのため砂川村は東西に細長い村でした。砂川村は年貢徴収の単位として西から順に「一番」「二番」「三番」という風に番号がふられました。当初は全部で一番組~八番組までの集落があり、一番から四番までが上郷、五番から八番までを下郷と呼び、その郷には「小名主」が置かれて「名主」の名代としたそうです。

一番、二番と言うのは今も地名として残っています。わかりやすいのが多摩モノレール「砂川七番駅」です。かつての七番の所にあるからこの駅名となっているのです。天王橋がかつての砂川村の西端となり、その一帯が「一番」だったわけです。つまり、これが一番町の由来という事になるでしょう。厳密には「一番」とされたエリアより西の一帯ですが、町名の由来と考えていいでしょう。当初の砂川村の東端にあたる「八番」は現在の幸町の辺りです。立川市内の町名について根拠のあるものはここまでとなります。

立川市の北部だとその他「柏町」「幸町」「若葉町」「栄町」がありますが、これは砂川村とは関係なさそうです。世間一般でよく見かけるものなので、近代になって付けられた名称なのでしょう。お時間があれば弊社不動産ブログの記事「立川北部の砂川村と玉川上水の関係」をご参照ください。

町名の由来を憶測する

ここからは私の憶測です。事実に反していたら申し訳ございません。お時間がございましたら、もうしばらくお付き合いください。

富士見町

「富士」のつく地名は割とあちこちで見かけます。立川市では富士見町、国立市では富士見台、国分寺市では富士本ときます。その他に東村山市の富士見町、八王子市の富士見町、調布市の富士見町、羽村市の富士見平、日野市の富士町、西東京市の富士町、瑞穂町の富士山栗原新田などがあります。東京都下で「富士見町」だけでも4つもあるのです。「富士」がつくものだと10ですよ!我々日本人がいかに富士山に親しみを持ち大好きなのかがわかりますよね。

立川市の場合、富士見町のあたりには立川崖線という崖があります。旧奥多摩街道の見晴らしの良い辺りと言えばお分かりになるでしょうか。崖の下は多摩川に至る低地ですから、富士山がそれは良く見えます。という事で富士見町の由来については、こうした景観から来ていると考えていいと思います。つまり、富士山が見えるから富士見町という事でしょう。

錦町

「錦」は立派なものという意味があるので、立川駅前の一等地という事で錦町なのでしょうか・・

曙町

曙とは「夜明け」の事です。あるいは「新しく事態が展開しようとする時」を示します。立川基地が返還され立川駅北口の開発が進められた姿から曙町と名付けられたのではないでしょうか。ただし、当初は羽衣とつけられるはずだったのが、曙町となったとの話も伝わっています。羽衣町の項をご参照ください。

羽衣町

立川の一番東に当たり、朝日が昇る曙の意味で曙町だったが、現在の曙町に付けられる予定だった羽衣が「落ちる」イメージがあると飛行場を持つ軍からクレームがつき、羽衣と曙を入れ替えたという話が伝わっているそうです。

2018年02月12日